2010年5月1日土曜日

人をしあわせにするもの、見立ての考察


朝、起きたら眼前に広がっていた光景。なんだかほんものの風景みたいで、どこからか「ポッポポ~」というアルムな音が聞こえてきそうだ。

正体は子供が遊び半分で並べた動物型のクリップだが、適切なレイアウトと起き抜けというタイミングの組み合わせによって、絶大な効果を発揮した模様。さわやかに楽しく目覚めることができた。

人を幸せにするのに、いったいどれくらいの「モノ」が必要なのか?
多ければ多いほど、受け取る側がどんな人であっても、「フツウに」喜んでもらえる確率は増えるだろう。

しかし、ちょっとした「モノ」であっても、そこに大きなシナリーを出現させることもできる。人は「見立て」ることができるからだ。自分の中にある様々な追憶をたどって、あるいは、まだ見たこともない想像の世界に遊びながら、ほんの小さなトリガーから壮大な物語を創出することができる。

枯山水や結界などの例をあげるまでもなく、日本人はそもそもこうしたことに優れた民族だ(った)。見立てるためには、自分の中にリファレンス先がなくてはならないから、文化的に豊かな人ほど、ちょっとしたことにも宇宙を感じる、というようなことがおこるわけだ。

そしてまた、子供たちも「見立て」の天才である。おもちゃというのは何かのフェイクであることも多いが、そこに本物以上の喜びを見出し、たとえ粘土であろうが泥であろうが、本物以上においしい料理を作ってしまう。仮面ライダーの変身ベルトを装着すれば、脳内麻薬垂れ流し状態でライダーに変身できるのだ。(自分は今でもできます。)

少しくらい何か足りないほうが、人の創造力は発揮されやすい。四方八方よくできたものに囲まれた生活は、たしかに文明的なのだろうが、人を文化的にはしないのかもしれない。


Kota Nezu | znug design, inc.
場所:自宅

1 件のコメント:

  1. 見立てか、いい言葉だ。元気?かわりない?

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