マーシャル•マクルーハンは、人が創り出す道具はすべて人の拡張であると述べた。(人間拡張の原理 1967)
クルマはそもそも脚の拡張であったはずだが、情報化の流れの中で、感覚器官と脚が統合された人の拡張デバイスとして再定義を試みたのが、トヨタ時代に愛知万博で提案した i-unit だった。感覚器官で移動をモティベートし、脚でその移動をシームレスに実現する。移動先を狭めたくなかったので、人間と交わることができる直立形態と高速移動ができる低重心の走行形態が必要だったわけだ。
前置きが長くなりました。
ケータイやら電子手帳(死語)やらといった電子デバイスは、技術的にはかなりの小型化ができる上に、その小さなボディに多彩な(雑多な)機能を押し込めるだけに、いったい人の何の拡張ととらえ、どのような身体性を持たせたらよいのかと思うことがあります。
自分は一般的なケータイとiPhoneの両方を使っているのですが、最近、自分のこうしたものの使い方を振り返って気づいたことを書いてみようと思います。
両方ともまず間違いなく携帯電話であり、そのようにも使っているので、私の中で携帯電話としての身体性は持っています。
しかし、それだけではどうやら足りないようなのです。携帯電話という定義だけでは足りず、メタファーとして他のものも潜り込ませてしまっているようです。
ケータイはおサイフ、iPhoneは手帳。
おサイフケータイの便利さにすっかりやられて、コンビニの支払いはほとんどケータイです。新幹線も飛行機の国内線もすべてケータイさえあれば乗ることができます。おサイフを取り出す場面でケータイを取り出すことが増えると、自然とケータイはおサイフとしての身体性を獲得していくようです。
iPhoneのフリック入力は、これまで同様サイズのデバイスを数多く使ってきた中で、私としては初めて長文を入力する気にさせるものでした。ほぼ考えるスピードに遅れることなく入力できます。QWERTY配列のキーボード以外に答えがあったことにも驚きました。手帳を取り出す場面でiPhoneを取り出すようになると、iPhoneは私の中で手帳としての身体性を獲得していきます。(相変わらずスケッチは手描きですが。。)
気付けば、バッグの中でそれぞれ入れている場所もおサイフのそばと手帳のそばです。手帳は革製品ですが、なるほど、iPhoneにも革ケースです。
たったこれだけのことを言うためにここまで引っ張ったのか、というと、そうなのです。ゴメンナサイ。でも自分的には大発見だったのです。
自分の中では、おサイフケータイがおサイフとしての身体性を持ち、iPhoneが手帳としての身体性を獲得していることが、とても意味のあることに思えたのです。
あとは、そういうデザインをするだけだナぁって思うのです。